STARGLOW(スターグロウ)のメンバーとして活動するRUIさん。
本名は川島塁さんで、その名前には家族の野球への思いが込められています。
いま特に注目を集めているのが、弟の川島連十さんです。
二松学舎大学附属高校の左腕投手として、2026年夏の東東京大会でチームを準優勝へ導きました。
お父さんは、日本ハムやソフトバンクなど4球団でプレーし、現在はオリックス・バファローズで打撃コーチを務める川島慶三さん。
一方でお母さんについては、元ファイターズガールだとする話がある一方で、公式な発表は見当たらず、ファンの間でさまざまに語られています。
この記事では、弟・川島連十さんの最新の活躍を中心に、父・川島慶三さんの経歴、母・川島沙耶さんをめぐる話、両親の離婚が語られる理由まで、わかっている事実とネット上の噂を分けながらまとめていきます。
母親や両親のことを知りたい方は、記事後半にまとめていますので目次からお進みください。
RUI(STARGLOW)の弟は二松学舎大付の左腕・川島連十

STARGLOW(スターグロウ)のRUIさんには、高校野球で注目を集める弟がいます。
名前は川島連十さんで、東京の名門・二松学舎大学附属高校でエース格を担う左腕投手です。
RUIさんの本名は川島塁さんですから、兄弟そろって川島姓ということになります。
音楽の道を進んだ兄と、マウンドで勝負する弟。
まったく違うフィールドに立ちながら、どちらも全国区の舞台で名前を知られる存在になりました。
- 名前:川島連十(かわしま れんと)
- 生年月日:2009年9月28日
- 出身:東京都国立市
- 所属:二松学舎大学附属高等学校(2026年時点で2年生)
- ポジション:投手
- 投打:左投左打
- 背番号:10
- 身長・体重:176センチ・70キロ
連十さんはRUIさんより3歳年下の弟にあたります。
2025年春に二松学舎大付へ進学し、1年生の夏からすでに公式戦のマウンドを任されてきました。
2026年は2年生としてチームの主力となり、背番号も1年時の11から10へと変わっています。
持ち味は、常時130キロ中盤から後半を計測するストレートです。
そこにカーブやスライダー、チェンジアップを組み合わせて打者のタイミングを外す、本格派の左腕として評価されています。
球速だけで押すタイプではなく、緩急と制球で試合を作れるのが連十さんの強みです。
野球を始めたのは小学生の頃で、地元の国立ヤングスワローズでプレーしていました。
中学からは硬式の多摩シニアに進み、そこで一気に全国区の投手へと成長していきます。
この時点ですでに「川島慶三さんの息子」という肩書きだけでは語れない実力を備えていました。
そして高校入学後、その才能が公式戦の舞台で一気に開花します。
1年夏のデビュー戦での快投、そして2年夏の東東京大会での快進撃と、二松学舎大付の投手陣を引っ張る存在になりました。
【吹き出し位置】
想定内容:ヒカリ「1年生から投げてたんですね」→スバル「積み上げが今につながっています」
兄・RUIさんがSTARGLOWのメンバーとしてデビューを果たしたのは2025年から2026年にかけてのことです。
ちょうど同じ時期に、弟の連十さんも高校野球の世界で存在感を高めていきました。
音楽と野球、それぞれの舞台で兄弟が同時に注目を集めたことに、「才能一家すぎる」と驚きの声を寄せるファンも少なくありません。
STARGLOWのファンが連十さんの試合結果を追いかけ、高校野球ファンがRUIさんの活動を知る。
そんな交差が生まれているのも、この兄弟ならではの面白さですね。
ここからは、連十さんがどのようにして注目される投手になっていったのか、中学時代からの歩みを追っていきます。
多摩シニア時代に日本代表として全米選手権へ
川島連十さんが全国区で名前を知られるようになったきっかけは、中学時代に所属していた多摩シニアでの活躍でした。
小学生の頃は地元の国立ヤングスワローズで軟式野球に打ち込み、中学からは硬式の多摩シニアへ進みます。
軟式から硬式への移行は、球の重さも投げ方の感覚も変わる大きな転換点です。
連十さんはこの環境で本格的に投手としての土台を築いていきました。
そのなかでも特に大きな経験となったのが、シニアの日本代表に選出されたことです。
2024年には日本代表の一員として全米選手権大会に出場し、同年代の海外の選手たちと真剣勝負を重ねました。
限られた選手しか立てない舞台で世界の打者と対戦した日々は、連十さんにとって大きな財産になったはずです。
この代表歴は、後に高校でデビューを果たした際のスポーツ紙報道でも経歴として紹介されています。
中学生の時点で全国から選ばれる投手だったことが、あらためて伝わってきますね。
投球そのものの評価も、この頃から高まっていました。
中学生ながら最速140キロを計測したと語られており、左腕としては際立った数字です。
SNSでも投球フォームの動画が広まり、「フォームがきれい」「球に力がある」といった声が野球ファンの間で交わされていました。
体格に恵まれた選手というより、下半身の使い方と腕の振りで球に力を伝えるタイプだったことがうかがえます。
お父さんの川島慶三さんはプロの世界で長く現役を続けた選手ですが、連十さんは打者ではなく投手の道を選びました。
同じ野球でも役割はまったく違います。
その背中を見て育ちながら、自分自身の武器を見つけていったところに連十さんらしさがあります。
基礎を丁寧に固めたうえで、勝負どころでは思い切って腕を振れる。
このスタイルが完成しつつあったのが、多摩シニアで過ごした3年間でした。
高校入学直後から公式戦のマウンドを任されたのも、この時期に積み上げた実績があったからだと考えられます。
高校デビュー戦で参考記録ながらノーヒットノーラン
川島連十さんの名前が一気に広まったのは、高校1年生の夏でした。
2025年7月5日、全国高等学校野球選手権の東東京大会で、連十さんは公式戦デビューのマウンドに立ちます。
初戦の相手は都立両国高校で、1年生ながら先発を任されました。
そしてこの試合で、連十さんは高校野球ファンの記憶に残るピッチングを見せます。
5回を82球で投げ切り、4奪三振で無安打無失点。
試合が5回コールドで終わったため参考記録という扱いになりましたが、デビュー戦でのノーヒットノーランという結果を残しました。
試合は二松学舎大付が13対0で快勝し、連十さんは打線の援護を受けながらチームの好発進を投げて支えています。
初回から130キロ後半のストレートを軸に組み立て、両国打線に最後まで安打を許さなかった内容でした。
高校1年生の公式戦初登板とは思えない落ち着きぶりで、緊張で球が浮くような場面もほとんど見られません。
マウンドでの表情も淡々としていて、中学時代に代表として国際大会を経験してきたことが生きていたのかもしれませんね。
チームを率いる市原勝人監督も、連十さんを「将来を背負う選手」と評し、1年生を初戦の先発に起用した意図を語っています。
高校野球の名門で、いきなり夏の初戦を託されること自体が異例です。
その期待に結果で応えたことが、連十さんにとって大きな自信になったはずです。
試合後はSNSでも反響が広がりました。
「いきなりノーノーはすごい」「お父さん譲りの度胸を感じる」といった投稿が並び、スポーツメディアでも取り上げられています。
野球ファンだけでなく、兄・RUIさんを応援しているSTARGLOWのファンからも驚きの声が上がりました。
というのも、この快投があったのは、ちょうどRUIさんのグループ活動が本格化していく時期と重なっていたからです。
音楽とスポーツ、それぞれの舞台で兄弟が同じ夏に注目を集めたことになります。
「才能一家すぎる」と感動を共有する投稿が広がったのも、このタイミングでした。
この1年夏のデビュー戦が、連十さんにとって高校3年間のスタートラインになりました。
2026年夏・東東京大会は準優勝、準決勝の帝京戦で143球完投勝利
2年生になった川島連十さんは、2026年夏の東東京大会でチームの主力投手として戦いました。
背番号は10を背負い、大会を通じて4試合に登板しています。
投球回は17回3分の1、16奪三振、防御率6.75という成績を残しました。
数字だけを見れば失点も重ねていますが、勝ち上がるほど相手のレベルが上がるトーナメントで、ここまで投球回を積み上げたこと自体が信頼の証といえます。
そのなかで最大のハイライトとなったのが、7月25日の準決勝でした。
相手は東東京の強豪・帝京高校です。
連十さんは先発マウンドに上がり、143球を投げ抜いて3失点完投勝利を挙げました。
球数が140球を超えても最後まで一人で投げ切り、二松学舎大付を4年ぶりの決勝進出へと導いています。
夏の大会の準決勝で、2年生左腕が名門相手に完投する。
これは高校野球ファンにとっても強く印象に残る一戦になりました。
試合前にはお父さん・川島慶三さんから助言を受けていたエピソードも報じられ、親子で野球に向き合う姿として話題を呼んでいます。
SNSでも「ナイスピッチング」「粘り強さがすごい」といった称賛の投稿が並びました。
迎えた7月27日の決勝戦、相手は関東第一高校でした。
連十さんは中1日での先発を任されましたが、この日は思うように試合を作れません。
2回途中で7安打5失点を喫して降板し、チームは4対10で敗れました。
甲子園まであと一歩というところで、夏が終わりました。
前日までの疲労が残るなかでの登板であり、連続で腕を振り続けた代償が出た形です。
それでも、チームを決勝の舞台まで運んだのは間違いなく連十さんの右腕、いえ左腕でした。
準優勝という結果は、二松学舎大付にとっても大きな成果です。
敗戦後、連十さんが語った言葉が多くの人の心に残っています。
「自分は自分なので、自分の力でもっと上に行きたい」
この一言が持つ意味については、次の章であらためて触れていきます。
SNSでは敗退直後から「来年も応援している」「最上級生になった連十が楽しみ」といった前向きな投稿が相次ぎました。
2027年の夏、最上級生としてどんな投球を見せてくれるのか。
兄・RUIさんの活躍とあわせて、追いかけていきたい選手ですね。
「川島慶三の次男」でも「RUIの弟」でもなく、川島連十として

2026年夏の東東京大会が終わったあと、川島連十さんの言葉が野球ファンの間で広く共有されました。
「自分は自分なので、自分の力でもっと上に行きたい」
決勝で敗れた直後に語られたこの一言です。
連十さんはこれまで、報道でもSNSでも「川島慶三の次男」「STARGLOWのRUIの弟」という肩書きとセットで紹介されてきました。
プロ野球で長く活躍した父と、デビューを勝ち取った兄。
どちらも注目度の高い存在ですから、紹介のされ方としては自然な流れです。
それでも本人は、その肩書きに寄りかからない立ち位置を選んでいます。
決勝戦の前にお父さんやお兄さんから特に連絡はなかったことも、本人が明かしています。
家族が距離を置いていたというより、マウンドに立つのは自分だけだという線引きを、連十さん自身が引いていたようにも受け取れます。
この姿勢を報じた記事はSNSで大きく拡散されました。
「かっこよすぎる」「17歳でこの言葉が出るのがすごい」といった投稿が並び、野球ファンからもSTARGLOWのファンからも好意的に受け止められています。
肩書きで報じるメディアと、肩書きを外そうとする本人。
そのギャップこそが連十さんの物語として面白がられている状況です。
一方で、兄・RUIさんとの関係が冷えているわけではありません。
ファンの間では、RUIさんが弟に向けたとされる「プロになったら登場曲を作るから絶対になれよ」という趣旨の激励エピソードが繰り返し共有されてきました。
音楽で結果を出した兄が、弟の夢の先にある景色に自分の役割を用意している。
そんな言葉として受け止められ、家族の絆を感じさせる話題になっています。
普段は連絡を控え、それぞれの場所で勝負する。
でも根っこの部分では応援し合っている。
その距離感の取り方に、共感を寄せるファンが多く見られます。
「自分の力でもっと上に行きたい」と語った連十さんが、最上級生としてどんな夏を迎えるのか。
肩書きなしで名前が呼ばれる日は、そう遠くないのかもしれませんね。
父親は川島慶三!オリックス・バファローズで打撃コーチを務める

RUIさんのお父さんは、プロ野球ファンにはおなじみの川島慶三さんです。
2025年10月4日放送のTBS系『夜明けのラヴィット!』にRUIさんが出演した際、本人がお父さんの名前を明かして話題になりました。
グループのメンバーとしてテレビに出た場で語られたことで、野球ファンとSTARGLOWのファンの両方に驚きが広がった発表です。
川島慶三さんは佐世保実業高校から九州国際大学へ進み、2005年のドラフトで北海道日本ハムファイターズに入団しました。
内野も外野もこなすユーティリティープレイヤーとして、長くプロの舞台に立ち続けた選手です。
在籍したのは日本ハム、ヤクルト、ソフトバンク、楽天の4球団。
左投手に強い打者として「左キラー」の異名で知られ、代打や守備固めなど勝負どころで起用される場面も多くありました。
番組では、RUIさんが「ファイターズから、ヤクルト、ソフトバンク、最後は楽天」とお父さんの歩みを紹介する一幕もあります。
息子がそらで球団名を並べられるあたりに、家庭で野球が身近だった様子がうかがえますね。
2022年に現役を引退したあとは、指導者の道へ進みました。
2023年から2024年にかけて楽天でコーチを務め、2025年からはオリックス・バファローズに移っています。
2025年は一軍打撃コーチとして選手名鑑に掲載され、2026年8月時点でも背番号82の打撃コーチとして球団の監督・コーチ一覧に名前があります。
現役時代の川島慶三さんは、ベンチで明るく声を出してチームを盛り上げるムードメーカーとしても知られていました。
その姿勢は指導者になってからも変わらず、選手と同じ目線に立てるコーチとして評価を集めています。
長く控えの立場も経験した選手だからこそ、出番を待つ選手の気持ちが分かるのかもしれません。
そして、RUIさんの本名にもお父さんの野球人生が刻まれています。
RUIさんの本名は川島塁さんで、この「塁」という字は野球の塁にちなんで名づけられたものです。
由来については、RUIさん自身がテレビ番組で語っています。
生まれた時点で野球ひとすじの家庭だったからこそ生まれた名前だと考えると、親子のつながりを感じますね。
弟の連十さんが野球の道を選び、RUIさんが音楽の道を選んだあとも、その名前は変わらずRUIさんの一部であり続けています。
分野は違っても、本気で夢を追いかける姿勢は父親譲りだと語るファンも少なくありません。
「THE LAST PIECE」で最後までデビュー枠を争い抜いたRUIさんのひたむきさに、勝負の世界で戦い続けた川島慶三さんの姿を重ねる人も多いようです。
母・川島沙耶さんは元ファイターズガールとして語られてきた人物

RUIさんのお母さんについては、「川島沙耶さん」という名前で語られることが多くなっています。
旧姓は野沢さんで、北海道日本ハムファイターズの公式チアリーディングチーム「ファイターズガール」の出身だという話が、複数のネット記事やまとめサイトで繰り返し紹介されてきました。
実際、検索でも「川島沙耶 川島慶三」「川島沙耶 川島塁」といった組み合わせで名前が調べられています。
RUIさんの家族を知りたい人にとって、お母さんの存在はそれだけ気になる部分だということですね。
ただ、この名前や経歴について、本人の発信や球団の資料、大手メディアの報道といった一次的な裏づけは見当たりません。
ネット記事同士が同じ内容を引用し合っている状態が続いているため、いまのところは噂の一つとして受け止めておくのがよさそうです。
ここで前提を少し補っておきます。
ファイターズガールは、日本ハムのホームゲームで演出やパフォーマンスを担当する球団公式のチアチームです。
球場での存在感が大きく、選手と同じ空間で仕事をする立場でもあります。
そのため、球団関係者との接点が生まれやすい環境ではあります。
川島慶三さんが日本ハムに在籍していたのは2006年から2007年にかけての時期です。
この頃に球場をきっかけとして知り合い、のちに結婚したという流れがネット上では語られています。
ただ、出会いの経緯や結婚の時期についても、ご本人たちからの発信は見当たりません。
RUIさんが生まれたのは2007年6月1日ですから、時期としては辻褄が合うという指摘もあります。
とはいえ、生年月日から経緯を逆算するのはあくまで推測にすぎません。
お母さんが一般の方であることを考えると、詳しい情報が出てこないのはむしろ自然なことだといえます。
結婚後は家庭に入り、長男のRUIさんと次男の連十さんを育ててきたとみられています。
音楽と野球という別々の道で、どちらの子どもも早い段階から本気で打ち込める環境があったことは、家庭の支えなしには考えにくいところです。
RUIさんは中学生の頃からBMSGのトレーニーとしてレッスンに通い、連十さんも小学生から野球チームに所属していました。
送り迎えや道具の準備、練習と学業の両立まで含めれば、日々の積み重ねは相当なものだったはずです。
現在のお母さんの活動については、語れる材料が出てきていません。
それでも「RUIさんと連十さんのお母さん」として、ファンから関心を寄せられ続けている存在です。
RUI(STARGLOW)の両親の離婚が語られる理由
RUIさんのご両親については、すでに離婚しているのではないかという見方がネット上で語られています。
「川島塁 両親 離婚」「川島塁 片親」といった調べ方をする人が一定数いるのも、この見方が広まっているためです。
ただ、結論から書くと、ご本人やご家族が離婚について何かを語った形跡は見当たりません。
では、なぜ離婚が語られているのでしょうか。
根拠として挙げられているのは、お父さん・川島慶三さんの再婚報告です。
川島慶三さんは2024年5月、自身のInstagramで再婚したことを明かしました。
報道によれば、再婚したのは同年1月で、投稿のなかで子どもが2人いることにも触れています。
この投稿が広まったことで、「以前の結婚生活はすでに解消されているのではないか」と受け止められた形です。
再婚という事実そのものは本人の発信によるものですから、ここは確かな情報だといえます。
一方で、そこから先は事情が変わってきます。
再婚相手の詳しい情報は明かされておらず、前の結婚相手が川島沙耶さんだと川島慶三さんが述べたわけでもありません。
離婚の時期や経緯、お子さんたちがどちらと暮らしてきたのかについても、語られた形跡は見当たらないままです。
そのため、「両親が離婚している」という話も、再婚報告から読み取られた見方の一つにとどまっています。
ネット上では離婚の年を具体的に挙げる記事も見られますが、その数字の出どころははっきりしません。
家庭の事情はご本人たちのプライベートに関わる部分ですから、語られていない範囲を憶測で埋めるのは避けたいところです。
一つ言えるのは、家族の形がどうであれ、それぞれがRUIさんと連十さんを応援している様子は伝わってくるということです。
川島慶三さんは、2026年夏の東東京大会でも準決勝の前に連十さんへ助言を送っていたことが報じられています。
プロの現場で指導者として働きながら、息子の試合にも目を向けていたわけですね。
RUIさんについても、デビューを決めた直後にお母さんへ電話で報告した場面が知られています。
その電話でRUIさんが伝えた言葉については、生い立ちの章であらためて触れていきます。
家族それぞれの立ち位置は変わっても、支え合う関係は続いている。
そう感じさせるエピソードが、兄弟の周りには残されています。
RUI(STARGLOW)の実家は東京都内
RUIさんの実家は東京都内にあるとみられています。
RUIさん自身が出身地を細かく語った場面は見当たりませんが、手がかりになるのが弟・連十さんのプロフィールです。
連十さんは東京都国立市の出身とされ、地元の国立ヤングスワローズで野球を始めました。
その後、多摩シニアへ進んで硬式野球に取り組み、二松学舎大付へと進学しています。
小学生時代のチームが国立市を拠点としていたことを考えると、川島家の生活の拠点は多摩地域を含む東京都内にあったと考えるのが自然です。
兄弟が同じ家庭で育ったのであれば、RUIさんも同じ環境で少年時代を過ごしたことになります。
東京に生活の拠点があったことは、兄弟それぞれの挑戦にとって大きな意味を持っていました。
音楽の世界では、レッスンスタジオやオーディション会場、番組の収録スタジオが都内に集中しています。
RUIさんは中学生の頃からBMSGのトレーニーとしてレッスンに通っていました。
学校に通いながらレッスンと審査をこなすには、移動時間の短さがそのまま練習量に直結します。
「THE FIRST」に挑戦した当時もまだ中学生でしたから、通いやすい場所に住んでいたことは相当な後押しになったはずです。
野球の環境についても同じことがいえます。
東京には強豪校が数多くあり、シニアリーグのチームも各地域に整っています。
連十さんが多摩シニアで力をつけ、名門の二松学舎大付へ進めたのも、選択肢の多い土壌があってこそでした。
音楽と野球という別々の分野で、どちらも一線級の環境が身近にある。
これは全国的に見ても限られた条件です。
もちろん、環境だけで結果が出るわけではありません。
それでも、子どもたちが本気で打ち込みたいと言ったときに、通える場所に選択肢があったことは川島家にとって幸運でした。
STARGLOWのメンバーとして活動する現在も、RUIさんは東京を拠点に多忙な日々を送っているとみられます。
グループの活動が本格化するにつれて実家を離れる時間も増えていきますが、育った街で積み上げた時間が今の土台になっているのは間違いありません。
RUI(STARGLOW)の本名・川島塁としての生い立ち
RUIさんの本名は川島塁さんで、2007年6月1日生まれです。
お父さんがプロ野球選手という家庭に生まれ、幼い頃からスポーツが身近にある環境で育ちました。
名前の「塁」は野球の塁にちなんでつけられたもので、家族の野球への思いがそのまま込められています。
その由来をRUIさん自身がテレビ番組で語り、ファンの間で話題になりました。
野球一家に生まれながら、RUIさんが選んだのは音楽の道でした。
中学生の頃にはすでにその意志を固めており、BMSGのトレーニーとしてレッスンを重ねていきます。
同世代がまだ進路を考え始める時期に、プロを目指して通い続けたことになります。
大きな挑戦となったのが、オーディション番組への参加でした。
「THE FIRST」では脱落を経験しながらも、そこで終わりにせずトレーニーとして力を蓄え続けます。
一度落ちた場所へもう一度戻るには、実力だけでなく気持ちの強さが必要です。
この時期の歩みについては、RUIさんのプロフィール記事でくわしくまとめています。
そして2025年、オーディションプロジェクト「THE LAST PIECE」を勝ち抜き、STARGLOWのメンバーに選ばれました。
STARGLOWはBMSGから誕生した5人組のボーイズグループです。
スターグロウのほか、スターグローやスタグロといった呼ばれ方をされることもあり、SNSではstarglowやruiとアルファベット表記で語られる場面も多く見られます。
2025年9月にグループが始動し、同月配信の「Moonchaser」でプレデビューを果たしました。
その後、2026年1月にはデビューシングル「Star Wish」をリリースし、オリコン週間シングルランキングで1位を記録しています。
同年にはドラマ出演やテレビ番組への登場も増え、3rdシングル「Drivin’ My Life」の発売、夏フェスへの出演と活動の幅を広げてきました。
グループとしての歩みや楽曲情報は、STARGLOWの解説記事にまとめています。
このデビューが決まった直後の出来事として、いまも語り継がれている場面があります。
RUIさんがお母さんに電話をかけ、こう伝えたのです。
「STARGLOWのRUIです」
名前だけを告げた短い一言に、ここまで支えてくれた家族への感謝と、ようやく夢をつかんだ誇りが詰まっていました。
中学生の頃から見守ってきたお母さんにとっても、忘れられない電話になったはずです。
野球の道で戦う弟の連十さんと、音楽の道で羽ばたく兄のRUIさん。
生まれた家庭で育まれた挑戦心は、これからもそれぞれの舞台で力になっていくはずです。
まとめ
STARGLOW(スターグロウ)のRUIさんの家族について、わかっていることを見てきました。
最も注目を集めているのが、弟の川島連十さんです。
二松学舎大学附属高校の左腕投手として、2026年夏の東東京大会でチームを準優勝へ導きました。
準決勝の帝京戦では143球を投げ抜いて完投勝利を挙げ、決勝進出の立役者となっています。
中学時代には多摩シニアからシニア日本代表に選ばれ、全米選手権にも出場しました。
そして「自分は自分なので、自分の力でもっと上に行きたい」という言葉が、多くの野球ファンの心に残っています。
お父さんは、元プロ野球選手の川島慶三さんです。
日本ハム、ヤクルト、ソフトバンク、楽天の4球団でプレーし、2026年時点ではオリックス・バファローズで打撃コーチを務めています。
RUIさんの本名である「塁」は、野球の塁にちなんでつけられた名前でした。
お母さんについては、川島沙耶さんという名前や元ファイターズガールだという話がネット上で語られています。
ただ、その裏づけとなる情報は見当たらず、いまのところは噂の一つにとどまっています。
ご両親の離婚についても同じです。
2024年に川島慶三さんが再婚を報告したことから語られている見方であり、時期や経緯が明らかにされたわけではありません。
それでも、家族それぞれが兄弟の挑戦を支えている様子は伝わってきます。
準決勝の前にお父さんから連十さんへ助言があったこと。
デビューを決めたRUIさんが、お母さんへ「STARGLOWのRUIです」と電話で報告したこと。
そのひとつひとつが、川島家の絆を感じさせるエピソードです。
音楽と野球、それぞれの道を全力で歩む兄弟。
STARGLOWとしてのRUIさんの活動も、最上級生を迎える連十さんの2027年の夏も、あわせて追いかけていきたいですね。
